鯨類における胃内容物の分析方法

鯨類の胃の構造

 鯨類におけるいわゆる「胃袋」は一般的には主に食道胃(または前胃)、主胃、幽門胃、十二指腸膨大部4つの袋から構成されている。食道胃は食道の末端が膨大して袋状になったもので伸縮性に富む。消化腺はないが、主胃からの消化液により内容物は原形をとどめないまでに消化される。内面は白く、ややざらついた感触。新鮮な餌は大抵食道胃から出現するので、胃内容物採集にはこの内容物を採集することが最低必要条件となる。アカボウクジラ類など一部の鯨類では食道胃は袋状とならず、続く主胃が最初の袋となる。主胃は食道胃に続く袋で、幽門胃と合わせて組織学的に真の胃袋をなす。ここには消化腺があり、消化液が分泌される。内面は赤みを帯び、表面を粘液が覆っているので滑らかである。主胃はアカボウクジラ類などでは2室に分かれている。幽門胃は主胃に続く薄い膜状の袋で、他の胃の内面がしわが多いのに対しほとんどしわがない。2室に分かれている種類が多いが、アカボウクジラ類では8室程度の小袋に分かれる。十二指腸膨大部は腸管の手前にある小さな提灯状の袋で、内面に膵管が開口する。


胃内容物の採集と保存

 最初に解剖した鯨類から胃袋を摘出しなければならない。まず腹腔から丸ごと取り出された状態の内臓全体を背面を上にして置く。両肺の間に背大動脈が見え、その下に食道があるので、背大動脈を切除する。食道はその下にある気管に密着しているので、間を接着している膜を切って食道を取り外す。食道の末端は横隔膜を貫通しており、胃袋は肝臓ととも横隔膜の下に垂れ下がっている。食道に沿って横隔膜と肝臓を切り分けると、食道以下の消化管が一纏まりに取り外せる。ここで噴門を結索する。食道は胃につけたままできるだけ長く採っておく。外した消化管には脾臓が食道胃に、膵臓が主胃から幽門胃まで密着した状態となっており、また十二指腸付近には腸間膜リンパ腺の先端が接続している。ここで腸管を切断すれば胃袋全体が摘出できる。脾臓は食道胃を覆う網目状の膜ごと切り離す。膵臓は主胃や幽門胃との境の膜を慎重に切って外す。食道胃と主胃も密着しているので、両胃を繋ぐ管の部分を残して、境目の面を慎重に切り離しておく。その状態で食道胃と主胃の境を紐で結索しておく。必要に応じて幽門胃や十二指腸膨大部の出入り口を紐で結索しておくが、結索しなくとも内容物の流失はあまりない。4mを越す体長の鯨類の胃袋は大きくて扱いにくいので、袋ごとに切り離すか、優先して採るべき袋を決めておく方がよい。あるいは状況により、内容物を現場で取り出さなければならないこともある。その場合は、各袋ごとに分けて取り出す。胃の内壁はしわが多く、耳石等が挟まっていることが多いので、慎重に観察して取り残しがないようにする。胃内容物中に液体が多いこともあるが、可能ならばメッシュで濾して固形物を採集し、残りの液体部分は重量を測定してから捨てる。また、全ての袋からの採集が難しい場合は食道胃を優先するが、アカボウクジラ類とマッコウクジラでは必ずしも第1胃(この場合は主胃)に内容物が多いとは限らないので、全ての袋から採集すべきである。

 保存法は冷凍が理想的である。肉眼観察による分析だけでなく化学的分析も可能になる。冷凍保存ができない場合には、70%以上の濃度、あるいは原液のエチルアルコールで保存する。胃袋にアルコールを入れる場合には灯油ポンプを使って食道から入れると便利である。解剖現場でアルコールを使う場合は、輸送等の手間を考えるとあまり多量には使えない場合が多い。そのため長期間そのまま置いておくと腐ってしまうので、できるだけ早く冷凍にするか容器に移し替えて別途保存措置をとる。ホルマリンは耳石を脱灰する上、後の作業で脱ホルマリンや廃液処理の手間が増えるので使わない方がよい。


実験室でのソーティング作業

 実験室では持ち帰った胃内容物を完全に解凍してから作業を開始する。半解凍のまま作業を無理に進めると標本を破壊してしまうので極力避ける。分析は各袋ごとに行う。袋ごと持ち帰った場合には、袋を切開する前に全重を、切開して内容物を取り出した後に袋の重量を量り、その差を内容物重量とする。胃内容物を取り出して持ち帰った場合にはそのまま重量を測定するが、液体部分は冷凍によって出たドリップなので、流す前に秤量する。

 内容物を取り出す際は、まず袋を切開して内容物をバットに移す前に中の状態を観察する。

上写真上段はイシイルカの食道胃を切開したところである。この場合は新鮮なホッケがいくつか頭を下に向けて収まっている様子が見える。胃の内壁はしわが伸びており、ほぼ満胃に近い状態である。鯨類では、捕獲の時にしばしば嘔吐するが、持ち帰った胃内容物の量が少ないのに胃壁が伸びきっており、食道の内面に吐瀉物が残っている場合には嘔吐があったことが分かる。下段左はホッケを取り出したところ。この時に餌の体長と体重を測り、頭骨から耳石を採集しておく。この様な新鮮な餌が出現することはまれで、下段右のように大抵はもっと消化が進んでいる。いくつかの消化段階の餌が混じって一つの胃に入っている場合も珍しくない。下写真は未消化から消化残滓まで一つの胃に入っていた例である。

この様な場合、はじめに未消化と半消化の餌、および脊柱やイカの外套膜、頭部など比較的大きな餌の断片を先に取り除き、別に調べる。その他の細かい内容物は水洗してからソートする。水洗の際は、左写真のように内容物を入れたバットに水を静かに入れ、懸濁物に上澄みができてから上澄みだけ慎重に流す。上澄みは必ず1mmほどのメッシュで濾し、耳石や顎板、骨、寄生虫など必要な内容物が流失しないように注意する。この作業を懸濁物の濁りが十分取り除かれ、水が透明になるまで何回か繰り返す。

その結果、左下写真のようにソート可能な状態となる。左下写真では左のバットに入っているものは水洗前にあらかじめ取り除いておいたもので、右のバットに入っているものは水洗した内容物である。左のバットのものは体長測定など必要な計測や耳石の取り出しをしておく。右のバットにはもう一度静かに水を入れ、水に浸した状態でピンセットを用いてソートを行う(右下写真)。この段階でソートするものは、耳石を保持している頭骨、背骨と耳石を保持していない頭骨、その他の骨、大きい魚肉、頭足類の上顎板、下顎板、口球、口球を保持している頭、外套膜、甲殻類、寄生虫、その他である。


その他の中には単離した耳石が含まれているので、大きめのガラスシャーレ等に移して水に浸し、流れないように傾けながら振盪して比重の重い耳石だけシャーレ底面の一方に集める。この時、透明なシャーレを裏から見ると耳石が集積しているのが確認できる。耳石の上に被さっている消化残滓を取り除けば、微少な耳石まで集めることができる。下写真はこの様にしてソートした胃内容物の一例である。これらそれぞれの重量を測定しておく。

それぞれの標本は、ラベルとともに標本ビンにて保存する。保存液には耳石と頭足類の顎板および顎板を保持している肉質部(口球など)には70%エチルアルコールを、それ以外の肉質部などには10%ホルマリンを使う。化学的分析に使う場合には冷凍保存する。


耳石の取り出し方

胃内容物の魚類の頭骨中にはしばしば耳石が残っている場合がある。これを取り出しておくと魚の外部形態から種同定できた場合にはレファレンスとして役立てることができる。しかし、胃内容物の魚類は消化の影響を受けて頭骨が壊れやすくなっている場合が多く、慎重に取り出さないとせっかく原形をとどめた標本を壊してしまうことになる。耳石の取り出し方には様々な方法があるが、ここでは頭骨の破壊を最小限に抑えて耳石を摘出する一方法を紹介する。

耳石は頭骨の裏面から摘出する。左写真はツチクジラ胃内容物から出現したソコダラ類である。はじめに両下顎骨の間を開き、鰓弓の先端を切断する。左の場合は魚体は既に消化の影響を受けて鰓弓が下顎骨から離れている。鰓弓を魚体後方へ押し下げると口蓋上面が現れる。口蓋上面を覆っている表皮を剥ぐと頭蓋骨底部が露出する。
左は頭蓋骨底部を露出させたところ。タラ類やハダカイワシ類では耳石が大きく、この状態で前耳骨の内側に耳石が透けて見える。耳石が小さい種類では見えないので必要に応じて副楔骨を取り外す。
耳石が見える場合は前耳骨にメスで切れ目を入れる。この時、メスの刃先を深く入れると耳石を脳に押し込むことになり、摘出が難しくなるので注意する。耳石が見えない種類では副楔骨を外してから、正中線に沿って前後にメスを深く入れる。前耳骨の外側から穴を開けると、耳石が小さい場合には紛失の原因となる。
メスの切れ目をピンセットで広げ、中の耳石を露出させる。耳石が小さい種類では、正中線に入れたメスの切れ目から頭蓋骨底部を左右に広げる。耳石は前耳骨の内側にあるのでそれをピンセットで摘出する。
中の耳石を摘出したところ。